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R4「京都東山で日州佐土原藩の法要」参列報告-2

2022.10.28

先に、京都伏見情報からですが、京都市側の説明によると発掘調査開始が遅れ、来月11月中にずれ込むとのことです。先日19日から、建機を入れて竹根の抜根作業が始まっております。6月に竹藪自体は完全に伐採したものの、竹根の方がまだしっかりと土中に張っているため、調査作業に支障があると判断したようです。調査開始次第、進捗を確認するように致します。
写真説明
今月10月1日、京都東山の「本山龍池山大雲院」おいて「日州佐土原藩法要」(佐土原藩戊辰役戦没藩士墓前祭と佐土原藩初代藩主島津右馬頭以久公墓前祭)が催されました。
主催の京都宮崎県人会のほか、宮崎県大阪事務所、近畿宮崎県人会、兵庫宮崎県人会、近畿佐土原会のほか、宮崎県佐土原総合支所、佐土原島津会、南日本新聞からそれぞれ参列されました。関西では唯一の宮崎県ゆかりの歴史行事です。毎年10月催行。
以下、参考です。
今年の参列者は16名でした。在京、在阪の県出身者
県事務所から伊東次長、野田課長、近畿宮崎県人会・佐土原会長、兵庫県宮崎県人会・吉原幹事長、永倉副会長。
主催者側の京都宮崎県人会から海蔵会長、井福名誉会長、中山副会長、宮元事務局長、井福会計局長。
佐土原勢が宮崎市佐土原総合支所釜元支所長、佐土原島津会の島津会長ご夫妻、近畿佐土原会が宇宿ともう1名。南日本新聞の飯伏大阪支店長も来られました。
昨年同様、釜元支所長が佐土原島津家御用達佐土原名物「鯨ようかん」を佐土原から持参され、懇話会の際にふるまわれました。
経緯
戊辰戦役終了後翌年の明治2年8月15日(旧暦)、大雲院旧地(寺町四条、現在の高島屋西増床部、駐車場付近)境内に「初代島津以久公霊廟」内に「佐土原藩戊辰役戦没招魂塚」が建立され、第一回佐土原藩墓前祭が催行されました。行事の詳細は不明です。明治の初めに各藩の招魂碑を調査した記録資料が旧主催者「霊山顕彰会・歴史館」に所蔵されており、佐土原藩の招魂塚の写真・描図が含まれています。
大雲院は元々、正親町天皇勅命により貞安上人が開山となった織田信長公・信忠公父子の菩提寺ですが、1610年京伏見屋敷で没した島津以久公が同院に埋葬されたため、佐土原藩は同院を江戸期を通じて屋敷代わりの佐土原藩京宿所としていました。そのため、幕末の戊辰戦争開始にあたり、佐土原藩最後の藩主となる島津忠寛公が同院に本陣を敷き、のべ466名の佐土原藩兵が上京し駐屯しました。慶応5年正月が最初の第一陣、続いて各隊が当地から会津へ向けて出陣して行きました。官軍方でも出陣した兵士の一割以上が戦没するという大きな損失があり、論功行賞では3万石の小藩でありながら、大藩と並ぶ功績を評価され全体の5位に列せられました。
明治に入り、大雲院で第一回京都市会が開催されており、京都市HPでも紹介されているなど京都の町に名を残しています。
昭和48年、大雲院は現在地(元大倉喜八郎別荘跡地)に移転しましたが、明治の頃から佐土原藩島津家の菩提寺であることから、数少ない宮崎県ゆかりの史跡として県出身者には長く慕われてきました。ちなみに、現在の門川京都市長は日向門川衆の末裔にあたることから、京都宮崎県人会の名誉顧問に就いていただいております。
「佐土原藩戊辰役戦没藩士招魂墓前祭」は、明治100年にあたる昭和43年に松下幸之助氏により創設された霊山顕彰会が、約半世紀にわたって主催されてきました。しかしながら、一昨年のコロナウィルス蔓延による業務見直しにより、京都護国神社の土佐藩龍馬祭を除く全顕彰行事を終了させることになりました。そのため、京都宮崎県人会は長く主催者側と協力関係にあったこともあり、また大雲院側もご縁を大切にとご理解をいただいたため、昨年の令和3年より主催者として同行事を引き継ぐことに至りました。
同院は非公開寺のため一般公開されておらず、京都市の特別公開時のみ参観可能ですが、関西在住の宮崎県出身者の方々には、宮崎県ゆかりの寺院として覚えておいていただけますと幸いです。佐土原藩の法要は毎年10月中に催行致します。日取りは宮崎県大阪事務所、近畿宮崎県人会、京都宮崎県人会、または「都城島津隊&佐土原島津隊歴史研究会」等の各Facebookを通じてお知らせするように致しますので、よろしくお願い致します。
(記・写真:近畿佐土原会・宇宿啓志) 写真をクリックしますと拡大します。